14年前に『探求三昧ブログ』で書いた、日本でも海外でも財布を落としても、ほとんど戻ってくるという体験をまとめて、その意味するところを考えてみた。
■14年前の記事
この記事は、14年前の2008/11/15に「探求三昧ブログ」で投稿したものを再掲する。
私は何故か日本でも海外でも、よく財布を落とす。
だが、ほとんどのばあいは不思議と戻ってくる。
正直な人が多い日本だけならばわかるが、海外の普通は財布を失くしたら諦めるしかないような国でも、度々そうなった。
つい先日は、近所の遊歩道のベンチで休憩して、スマホを置き忘れてしまったが、交番に届いていた。
そういう過去の体験をまとめてみた。
■財布をよく失くす
いままでの人生で、財布を落としたり失くしたりしたことが、何度もある。
注意散漫と言ってしまえばそれまでなのだが。
失くす度に、「まあいいや、しょうがない」みたいに、金に執着心がまるでないというか。
でも、「まあいいや」という想いとは裏腹に、その度に不思議と戻ってくる。
日本ならば、正直な人が多いので、あまり不思議ではないかもしれない。
だが、私の場合は、海外でもよくあるのだ。
いま、思い出すだけでも…
インドネシアで1回。
シンガポールで1回。
イスラエルで1回。
フランスで2回。
日本では…すべてを覚えていないが、何度か。
■シンガポールで
1994年からのべ1年半の間に、インドネシアに滞在して働いていた。
その頃に書いた日記を読み直していて、財布を失くしたことを思い出した。
仕事の関係で、ジャカルタからシンガポールへ、とんぼ返りした時のことだった。
シンガポールのチャンギ空港でのこと。
以下に、その日記からの抜粋を。
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●1995/05/01(月)
一階に上がって、ベンチに座り、ひと休みする。そして2階に上がる。
チェックインをしようとして、バッグの中のセカンドバッグがないのに気づく。
米ドル、ルピアの札束、トラベラーズチェック、パスポート、インドネシア帰国用の航空券など、重要なものばかり入っているものだ。
なくしたら大事件だ。
さっき一階のベンチで休んだときに、置き忘れたのだろう。
ベンチを離れてから、もう3分ぐらいたっている。
思わず神様に祈り、下の階のベンチへ急ぐ。
すると、セカンドバッグは、オレが置き忘れたベンチの上にあった。
その隣には、さっきはいなかった男性が座っている。
よく取られなかったものだ。
神様への祈りが届いたのか。
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■イスラエルで
イスラエルで財布をなくした時のことも、よく覚えている。
あれは2000年の前後だった。
仕事の研修で4回ほどイスラエルを訪れたことがあった。
イスラエルのN社製のIT製品を販売・保守する会社で働いていた。
そういう仕事に縁があって、イスラエルへ行くことができたり、多くのイスラエル人たちと知り合った。
それも、この国に何らかの縁(カルマ)があるからなのだろう。
イエスさまが生まれたといわれるベツレヘムでは、デジャヴュのような体験もしている。
エルサレムにも、過去生で行ったことがあったかもしれない。
研修で、毎朝テルアヴィヴのホテルからN社まで車で送り迎えされていた。
ある日、研修中に、財布がないことに気がついた。
どこで落としたのか、わからない。
その日の夕方。
ホテルに戻るときに送迎車の運転手が、財布を落とさなかったかと私に聞いてきた。
50代ぐらいのユダヤ人だ。
財布が戻ってきたことよりも、イスラエルにも正直な人々がいることを知って、嬉しかった。
■フランスで
次は落としたのではなく、フランスで財布をすられた。
いままでの人生で、財布をなくして戻ってこなかったという記憶が、ほとんどない。
戻ってこなかったのは、フランスで財布を落としたときぐらいだろう。
ルルドに聖地巡礼へ行った帰りの時だった。
TGV(フランスの新幹線)に乗っていて、車内のどこかで落としたのかもしれない。
パリに着いてから、警察に届け出たが、さすがに戻ってこなかった。
これが普通だろう。
中身は大した額ではなく、クレジットカードなども停止手続きをしたので被害は最小限で済んだ。
フランスで、もう1回のケースは、ノンフィクション作品(『聖母と聖女〜ルルド巡礼の記』)で書いている。
ルルドの聖地巡礼から帰ってきて、パリ(シャンゼリゼ)の街中で、財布をすられたのだ。
どこの国の人間だかわからないが、ラテン系の女性が2人近寄ってきた。
わけのわからないことをしゃべった後で、一人が畳んだ新聞を私の胸の前に差し出した。
もう一人の女性が、私の右腕を強く引っ張り、「ジャポネ」とか何とか言った後で、立ち去った。
その後、ジャケットのポケットに入っていた財布がなくなっていた。
ここまでは、よくあることだが、ここからがちょっと違っていた。
道路を渡ってちょっと歩くと、後ろから中学生ぐらいの少年がオレを止めた。
そして、「ソーリー」と言って、すられた財布を差し出した。
少年はすぐに、走り去ってしまった。
財布の中を見ると、金もクレジットカードも、まったくそのままだった。
まったく理解不能だが、奇跡的な出来事といえるかもしれない。
あれは、初めてルルドに聖母が出現した記念すべき2月11日にルルドを巡礼した翌日だった。
マリアさまが助けてくれたのだろうか。
■日本で
日本では、財布をなくしたすべてのケースで、そのまま戻ってきた。
携帯電話を落としたこともあった。
そのときも、善良な人が知らせてくれて、戻ってきた。
日本人というのは、やはり正直な民族だなと思う。
すべてではないにしても、そういう人が多い。
だが、一般的に海外では、財布をなくして戻ってくるというケースは少ないだろう。
私を守っている守護霊とか守護神とか、縁ある神々が助けてくださっているのか。
神仏は信じていても、多くの神仏を祀ってはいても、個人的な願い事を一切しない。
そのような人間には、いざというときにそういう神助が起きやすいのだろうか。
■守られている?
私は、かなり無鉄砲なところがあって、いつも自分の危険を顧みずに行動してしまうような人間だ。
自分を守ろうという気持ちが、まるでない。
それなのに、いつも不思議と助かる。
子供の頃、海で溺れかけたときに、知らない大人に助けられた。
ハンググライダーで墜落したときも、杉の雑木林の上に落ちて、怪我ひとつしなかった。
大きな事故に遭ったり、大病をしたことがまったくない。
未然に回避されているのかもしれない。
一度だけ、バイクにひかれたことがあった。
30代後半に、ジャワ島で働いていたときのこと。
当時交際していたDと一緒に道路を渡ろうとして、私だけ足をぶつけられた。
あとで彼女いわく、私が彼女をかばって自分だけひかれたらしい。
「らしい」というのは、無我夢中だったので、自分で行動を覚えていないのだ。
そのときも大した怪我ではなく、骨折せずに済んだ。
いつも(多くの神仏に)護られているという安心感もあるのかもしれない。
もっとも、守ってくださっている守護霊や守護神にとっては、「危なくて見ちゃいられない」という感じなのかもしれないが。^^;
本当に有難いことだと思う。
■スマホを失くした
それから、つい4日前には、末娘の遥梛(はるな)の幼稚園へ面接に行った帰りに、小平グリーンロード(自転車道路)のベンチで休憩した。
そこで、いつもは長いチェーンでiPhoneをズボンのバックルに繋いでいるのが、サルちゃんに貸したか何かで外していた。
それで、ベンチの上にiPhoneを置き忘れてしまった。
帰宅してiPhoneがないことに気づいて、その場所に戻ってみた。
既にiPhoneはないので、近くの交番へ行った。
すると、すでに届いていた。
私が置き忘れた直後に、わざわざ交番へ届けてくれた人がいた。
しかも、お礼は要らないと言っていたそうだ。
そのことをタイ人の妻のサルちゃんに話すと、タイではまず戻ってこないと言っていた。
どうしてこうなるのかわからないが、本当にありがたいことだ。
※財布やスマホの紛失防止用。
リモートで音を出して探せる。